習作005


◆初夏-昼◆


「つまりさ、不安なんだよ俺は」
 そういうアカシ先輩の口調はあまり不安そうな調子ではなかった。
「恥ずかしい話。本当に恥ずかしい話だけど」
 首筋に手を当てて視線を逸らしたその様子は、こっちは本当に恥ずかしそうだった。
 校庭の周りに植えてある椚からセミの大合唱が響き渡る。
 私は抱えている膝の上に顎をのせる。あちぃ、と口から勝手に言葉が零れる。夏のテニスは地獄だ。休憩時間でも休憩なんかになりはしない。手元の紙コップに入っている水を一口飲む。ぬるい。
「すごいさ。まぁ、知ってるとは思うけど俺はその……初めてなんだよ。女の子と付き合うのってさ」
「そっスね」
「だからさ、こんな俺だけと、それでもちょっとは情けなくなるんだよ、男として」
「はぁ」
「……タカオカ、聞いてる?」
「聞いてますよ、先輩は恥ずかしい人間って事っスよね」
「……なんかトゲがある気が」
 運動部の癖に色白で割と華奢な体つき。座っている私と立って向かい合っているというのに、気分的には私の方が見下ろしている感じだ。
 私は億劫ながら口を開く。
「だからね、先輩」
 あぁ、とアカシ先輩はこちらの目を見た。私はついと目をそらす。この人はいつも相手の目を真っ直ぐ見つめてくる。だから苦手だ。
「ミッちゃんは先輩にベタ惚れですから。そんな心配することないですよ」
 自分の気分が下がっているときに他人の相談事を聞いてあげるほど私はお人好しじゃない。だけどまぁ、親友のためだというならそれなら聞いてあげるか、というほどには私だってお人好しだ。
「うん。それは嬉しいけど」
「信用ならないんスか」
「いやそれは信用してるよ。ミチもタカオカも」
 私もかい、と心の中でつっこみを入れる。
 そうじゃなくてさぁ、とアカシ先輩は自分の短髪をガリガリと掻き毟った。
「キャップ被らないとまたキャプテンに怒られますよ」
「苦手なんだよ頭に何か乗っけるのって。だから長髪も苦手だ。タカオカもそうじゃないのか?」
「……いや、アタシはただの気分っスよ」
 襟元にも届かない程度の短髪を指でいじる。
「こうやってキャップも被るし、中学の頃はまぁそこそこ伸ばしてましたし」
「へぇ」
「それこそミッちゃんくらいはありましたよ、アタシも」
「そうなのか――ってあぁだから違うんだってば!」
 中学生から高校生になればまぁそれは色々と変わる。
 例えば髪を短髪にしたり。
 例えばテニスのボールが軟球から硬球になったり。
 例えば幼なじみの親友が部活の先輩と付き合い出したり。
 だけど、それもじき慣れる。
 お風呂上がりで乾かすのが手軽になったことも、ボールの軌道が鋭くなったことも、先輩と親友の仲を取り持ちしてあげることも。慣れる。
「ほら、あいつって気弱でちょっと口数が少ないじゃん」
「そっスね。小動物系っスから」
「だから、な。なんか俺ってアイツを不安がらせてないかな?」
「女々しい……」
「わかってるよ、わかってるんだけどさぁ」
「自分が不安がってる癖に、なにが不安がらせてないかな〜ですか。男らしくずばっと自分で聞いて下さいよ」
「そりゃタカオカくらい男前なら俺だって自分で聞くけどさ」
 両手を頭の後ろで組んでうーん、と背を伸ばす。
「ミッちゃんはね、先輩」
「はい」
「どっちかっていうと、母性本能が強いタイプですから」
「見た目は子供っぽいのになぁ」
 それ本人の目の前で絶対言うなよ、泣くから。泣かしたらお前を泣かすからな、という意味の忠告をオブラートに包んで告げた。アカシ先輩はまた凹んだ。本日何度目だ。
「だからですね。あの子はこう、駄目な男を自分がなんとかしてあげなきゃってタイプっていうか。相手がバカな方が頑張っちゃうタイプなんですよ」
「つまり俺みたいな?」
「ノーコメント」
 昔っからあの子はそうだ。小動物系の癖に純粋すぎるんだ。通学路で女子中学生が不審者に襲われたと聞いて、金属バットと殺虫スプレーを抱えて夜道に張り込みをしようとするような、自分の正義のためなら周りが見えなくなってしまう子なんだ。だからいつも、私とキョーコがサポートしてあげなきゃいけない。サポート……違うか。お守りとか後始末とか。完全装備で捻り鉢巻きまでしたミッちゃんを2人で必死になって引き留めた姿を思い出す。
 でもなぁ、とアカシ先輩は腕を組んで空を見上げた。
「だからこそっていうか。俺だっていい所を見せたいっていうか」
「そうやって肩肘貼ると直ぐにボロが出ますよ」
 いや、もしかしたらボロを見せた方がそれはそれであの子の琴線に触れるかもしれないけど。
「……先輩はかっこ悪いんだから」
 脇に転がしてあったテニスラケットを拾ってガットの調子を確認する。コバルトブルーのフレームにメキシカンイエローのグリップ。この夏に買ったばかりの新品だ。
「そのままの先輩でミッちゃんと付き合って下さい。2人は絶対に上手くいきます。私が保証します」
 ラケットで先輩の太ももをハーフパンツ越しに叩く。ぽすんっといい音がした。
「そっか、タカオカの保証付きか」
「ええ」
「じゃ、信じるしかないな」
「……ええ」
 私は再びガットの張りを確認する。これだけハードにやってるんだ。とてもじゃないけど夏の間中持つとは思えない。確認しよう。
「あぁそうだ。そういえば夏休みにどっか行きたいなって思ってて――」
「ハジメちゃんせんぱーい」
 威勢の良い声が届き、タカオカ先輩は後ろを振り向いた。私は気にせずラケットに集中し続けた。たったっと軽快な足音が聞こえ、近くで止まる。
「おうイシバシ」
「先輩先輩、熊ちゃん先生が呼んでますよ」
「俺を?」
「はい。キャプテンも一緒でした。何やらかしたんですかー先輩」
「嬉しそうな顔するんじゃないよ。ありがとな。タカオカもありがと。また相談すると思うけどよろしくな」
 ん、と私は軽く首肯した。先輩はさっきの足音に比べていくらか憂鬱そうな音を響かせて去っていった。
 それと入れ違うようにガットをいじる私を黒い影が覆う。
「アイ、あんたも。女子もそろそろ休憩終わりだよ」
「うぃ」
 私は残り僅かだったぬるい水を飲み干し、紙コップを咥えたまま立ち上がった。パンツについたアンツーカーを手で払う。
 私が女子のコートに向かって歩き出すと、彼女が、私のもう1人の親友のキョーコがすぐに隣に並んだ。
「なにあんた仏頂面してんのよ。あんただって笑えば可愛いんだから笑いなさいよ」
「アタシはいつもこんな顔だよ」
「あはは、確かにそうだわ」
 紙コップを咥えたままもごもごと返事をすると、キョーコはからからと気持ちの良い笑い声を上げた。
「あーあ面白い。つーかなんの話してたの、2人で」
「ミッちゃんの話に決まってるでしょ」
「あーミッチの。ってそれなら私にも呼んでよ。付き合いなら私だって長いんだから」
「あんたは口が軽いからね」
「ひどっ」
 私とミッちゃんが物心つく頃からの付き合い。同じ集合住宅の隣の棟に住んでいたのがミッちゃんだ。キョーコとは小学一年生からの友人になる。
「ミッチはねー。可愛いから。彼氏なんて直ぐに出来ると思ったけど。意外と時間かかったね」
「そう? 私は早いと思ったけど」
「うそでしょ。少なくともアンタよりは絶対に早くできるって思ってた」
「なんでよ」
「なんとなく?」
 キョーコはラケットをくるりと回した。昔は3人とも同じくらいの背の高さだったのに、今では見上げる程だ。アカシ先輩よりも大きい。キョーコ、私、ミッちゃんでちょうど大中小の大きさだ。
「やっぱ茶道部ってのがいいよね。美人そうだもん」
「アタシはなんか古くさいっていうか、ちょっとほこり臭い気がするけど」
「それはミッチに酷くない?」
「本当だから。アタシは嘘はつかないの」
「だからそういう冗談は笑っていいなよ」
 キョーコがラケットのグリップで私の頬を突いてきたのでそれを手で払う。
「やーめーろー」
「あはは。やっぱり可愛い方がもてるのかなぁ」
「そりゃそうでしょ。他に何があんのよ」
「例えばおっぱいは私が一番大きいし?」
 ……繰り返すが、昔は、3人とも、同じくらい、だった、のだ。そして現在の順番の方は、背の順に比べて多少順位が入れ替わるのだが……詳細は省こう。
「アンタは下品なのよ」
「セクシーな方が男にもてるんだってよ」
「だからセクシーじゃなくて下品なの」
「どこが違うのよ」
 知るかそんなもん、と返したときに、男子コートから歓声が上がった。男子キャプテンがナイスプレーをしたようでガッツポーズを決めている。周りの部員――女子も含む――が拍手をしている。
 そして哀れにもそのプレーを決められた方は。
「あららアカシ先輩」
 キョーコはまた楽しそうにからからと笑った。
「あの人の何がいいのかね」
 私は黙ってコートをじっと見続けた。
「確かに色が白くてちょっと可愛らしい見た目だけど。なんだか頼りないし、話しててもあんまり面白くないし、テニスもあんまり上手くないし」
「テニスの技術ってそんなに重要?」
「わたしはね。テニスが世界一上手いんだったらバツ5の子持ちのコウテイペンギンでも結婚するね、わたしは」
 キョーコはぶんぶんとテニスラケットを振り回した。
 運動神経はキョーコがダントツ一位で、私達二人がだいぶ下がって同率二位。ちなみに学力の方はそれを逆さまにひっくり返した形だ。
 彼女の趣味も特技も生きる意味も全部まとめてスポーツに集約される。実にわかりやすくて、そして気持ちの良い私の自慢の親友だ。
 クラスは別れてしまったが、友人3人組で同じ高校に入学しそして今でも親友をやっていられるのだ。不感症な私でも、これがどれだけ得難いことかという事は理解できる。
「せめて人間の中から選んでね、キョーコ。結婚式に行き辛くなる」
「考えとくよー」
 私はくすりと笑った。
 ぶんぶんとラケットを振り回しながら、でもさ、とキョーコは続けた。
「でもさ、やっぱりアカシ先輩のどこがいいんだろうね」
「そんなのミッちゃんに聞いてよ」
「いや、そうじゃなくてさぁ」
 キョーコが何か呟いたが、私は聞こえなかったふりをして、黄色いボールの行き交う男子コートを見つめ続けた。


◆初夏-夜◆


「アニキー、冷凍庫にあったアタシのかき氷しらない? カップに入った奴」
「知ってるぞー今は俺の腹ん中だ」
「はぁー? ふざけんなよ」
「悪かった悪かった」
 居間のソファに寝転がって夕刊を読んでいる兄はとてもじゃないが申し訳なさそうにしているようには見えない。
「アンタってこの前もさぁ」
「悪かったって。かき氷の一つや二つで文句言うな。明日新しいの買ってきてやるよ」
「絶っ対うそ」
「ほんとだって」
 一向にこちらを向きもしない兄に私がイライラしていると、キッチンの方から母の声が届いた。
「アイ、許してあげなさい。お兄ちゃんだって仕事で疲れてるんだから」
「疲れてるって……アタシだって部活で疲れてるんだよ」
「ガキの部活と社会人の仕事を一緒にすんなよ」
「はぁ? 意味わかんないんですけど」
「アーイ、止めなさい。あとお兄ちゃんも。いい加減にしなさい」
 私はぶすっと黙って兄を睨んだ。
「アンタは明日の帰りでいいからアイス買ってきてあげなさい」
「ダッツね」
「はぁ?」
「私の分もねー」
 3倍近くの値段の高級アイスを指定されてむっときた兄だったが、母の一言でぐっと黙った。ざまぁみろだ。
「それからさっさとお風呂に入りなさい。お父さんが帰ってくる前に」
「……へいへい」
 兄がのっそりと立ち上がった。ちょっと胸がすっとしたとはいえ、明日アイスを買ってきて私に手渡すその時まで許す気はなく、そして顔も見たくないので私は踵を返して玄関に向かった。
「ちょっと出てくる」
「あんたこんな時間に何処行くの」
「下の自販機までだよ、大丈夫」
 サンダルに足を突っ込んだところで後ろから母が声をかけてきた。
「ちょっとアイ」
「だから大丈夫だって」
「それもなんだけどね、ちょっと聞きたいんだけど」
 臙脂色のエプロンで手を拭きながら母が顔を近づけてきた。深刻そうに眉を顰めて声を落とした。
「あのね、アキヤマさんちのミチちゃんなんだけど」
「ミッちゃんがどうかしたの?」
「恋人が出来たって本当?」
「……よく知ってるね。本当だよ」
「あらまぁ。あらまぁ」
 母はなんとも言い難い表情で頬を押さえた。
「なんでお母さんが知ってるの?」
「そりゃあんたアキヤマさんから聞いたからに決まってるじゃない」
 ……あの子は母親に話していたのか。まぁそりゃ隠し通せるような子じゃないけど。
「アキヤマさんがとても心配してたの。あそこはほら一人娘さんでしょ? こういう時はどうしたらいいのかしらって聞かれたんだけど、ほら、うちもなんだかんだ言ってお兄ちゃんでしょ? だからそうねぇって。娘にも聞いてみるけどって」
「あーはいはいなるほどね」
 長くなりそうな母の話を途中でとめる。
「アカシ先輩はいい人だよ。テニス部の先輩なんだけど」
「あらそうなの」
「人畜無害の常識人。むしろこっちがやきもきするレベルのね」
「ふぅん、ならいいんだけど……。あなたはどうなのアイ?」
 ……我が母親ながら本当に話があっちこっちに散らばる人だ。
「ないわよ、なにも。アタシ心配するくらいならアニキの心配しなよ」
「そうよねぇ。あの子ももういい年だもんねぇ」
「うっせー! 聞こえてんぞ!」
「聞こえてるようにいったのよ。あんたもね、少しは」
 こんな所で議論しても意味があるとは思えない話を続ける2人を尻目に、私は外に出た。
 夏とはいえまだ初夏だ。短パンとタンクトップでは少し肌寒かった。
 羽虫が灯りめがけてぶんぶんと踊る下を通って階段を降りる。私の住んでいる2階から1階に下りた所でポケットに入れていた携帯が鳴った。名前を見ると件のアキヤマさん家の娘さんだった。
「もしもし、どうしたのミッちゃん」
 ミッちゃんは泣き声だった。驚きはしない。慣れたものだ。
 あの子が電話をかけてきたときの3回に1回は泣いているときだ。本人曰く、かける前は泣いていないのだけどコールしてる間にだんだん悲しくなってしまうのだそうだ。
「うん、うん、そう。うん」
 昔から私になんでも相談してきたミッちゃんだが、最近の話題はもっぱら愛しのアカシ先輩だ。アカシ先輩とうまくやっていけるのかどうか心配で仕方がないのだ。端から見ている分には、何を心配しているのか疑問に思うレベルで互いにベタ惚れなのだが。
「そっか。でも大丈夫だって」
 サンダルをカラコロならして団地前の駐車場を歩いて抜ける。人と自転車くらいしか通れない細い通路を抜けて道路に出る。大通りから一本ずれた場所の通りで、この時間はもうほとんど車が通らない。意識して通りは見ないようにして、左手十数メートル向こうにある自動販売機に向かう。
「ほら泣かない泣かない、ね?」
 ほの暗くひかる自動販売機に数枚の硬貨をいれる。レモンティーが欲しかったのだが、残念ながら売り切れている。それならばもう諦めて帰っても良かったのだが、家の中で電話をするのも嫌だったので、なんとなく指が宙を彷徨う。スポーツドリンク、水、炭酸、乳酸菌飲料……。
「大丈夫。2人は絶対上手くいくよ。アタシが保証する」
 がこんっと缶が落ちた。
「うん、じゃあね、おやすみ。また明日」
 携帯電話をポケットに突っ込む。しゃがんで自動販売機から缶を取り出す。
「どうしたんだアイ」
「きゃあっ!」
 驚いて振り向く。背中が自動販売機に当たった。
「あ、あぁすまんな、アイ」
「な、なんだ、お父さん」
 暗いグレーのスーツを着た父が申し訳なさそうに眉根を寄せた。微妙に暖かい自動販売機に背中をつけたままずるずると腰を下ろしそうになる。父が手を伸ばしてくれた。その手をとって立ち上がる。
「悪かったよ。本当にごめん」
「いいよいいよ」
「でもお前」
「いいからいいから、本当に」
 父はまだこちらを案ずるような目で見ていた。だから、もう大丈夫だって。
「あ、これあげる」
 私の手を握っていた父の右手に先ほど買った缶を握らせる。
「コーヒーか?」
「うん。しかも無糖。アタシ苦手なんだよね。間違って買っちゃって」
「そうか。だから溜息を?」
「……アタシ、溜息なんてついてた?」
「そうだな。さ、家に戻ろう」
 父は私の斜め前を歩く。左手にはビジネス鞄を、右手にはコーヒーの缶を。父は建築家だ。建築家の癖に私は自分の家を持っていないんだ、と昔そんな冗談を言っていた。
「スーツ暑そうだね」
「そうだなぁ、もう夏だからな」
「夏だもんね」
 よく喋る母。実直な父。覇気のない兄。
 多少喧嘩もしたりはするが、我がタカオカ家は重ね重ね平穏だ。
 つまり、私は幸福、なんだろう。多分。
「父さん」
「なんだ」
「砂糖の入ってないコーヒーって何が美味しいの?」
「美味しくないさ、不味いよ」
「不味いの? じゃあなんで飲むのさ」
「味の善し悪しと好き嫌いは別の問題だからな」
「なにそれ」
「コーヒーの作法だよ。覚えておきなさい」


◆初秋◆


「ちぃーっす」
 出来るだけ小さな声で挨拶をしてコートに入った。ジャージやユニフォームじゃなくて制服でコートに立つのは新鮮で、柄にもなく少し興奮した。
 ちょうど練習終わりだったのだろう。朝のコートは思ったよりも閑散としていた。足下に転がっていたボールを拾った。ぽんぽんと地面で撥ねさせる。朝の澄んだ空気にその音だけが響いた。
「お、タカオカじゃないか。おはよう」
「うぃッス」
 脳天気なアカシ先輩の声に、しかし視線は送らずに返事をした。どうせまた真っ直ぐに私の目を見ようとしてきているだろうから。
「どうしたんだ珍しいな。二学期からは朝練に参加するのか?」
「いや、キョーコにちょっと用事があって」
「イシバシか? さっきまでコートで暴れ回ってたけど」
 どこいったかなぁ、とアカシ先輩は辺りを見回した。ようやく彼の姿を見る。白のシャツに褐色のパンツ。うちの高校の体操着だ。手に持っているラケットは乳白色。首筋にはうっすら汗。まぁ、見ようによっては爽やかな好青年に見えなくないかもしれない。
「まぁすぐに戻るだろ。それよりどうだ、タカオカ。俺と一戦」
「いやアタシ制服ですし、無理ッスよ」
 手に持ったボールを先輩に投げた。先輩はラケットで不器用に受け止めると、そのままラケットでお手玉をした。
「朝練しないのか? 自主参加だけどさ、割とみんな参加してるぞ」
「アタシ朝弱いんで」
「中学の頃はバレー部だっけ? 結構熱心だったって聞いたぞ」
「ミッちゃんからッスか? まぁそこそこって感じですよ。そんな熱心とか言える程でも」
「なんでテニス部に」
「なんとなく。そこそこ運動になってダイエットができればそれで」
「お前は飄々としてるなぁ」
「そうッスか?」
「あぁ」
 返されたボールを受け取り掌で転がす。
「まぁ、女の子には色々あるんスよ」
「女の子ぉ? ……いってぇ!」
 鼻を押さえながら転がるボールを追いかけるアカシ先輩。そんなに強く投げてないだろう。大げさな。
「ま、高校になってから、っていうか中学の終わりくらいからですけど。段々体格に差が出てきて」
 大きいのは、強い。
 すごくすごくシンプルな定理だ。
「だから諦めました。今はま、ダイエットのついでって感じっすかね」
「あぁ、その気持ちはわからないでもないな」
「でしょう?」
 アカシ先輩もどちらかというと小柄で色白で、見た目には弱い人だ。だから私の気持ちだってわかるだろう。
 体格とか運動神経とかそう言う問題だけでなくて。例えばそれには可愛らしさとか性格の良さとかもつまり含まれる。
 強いものは、強いのだ。
 それに立ち向かうのはしんどくてしかたないし、負けて辛い目に合う前に逃げ出したくなる。
 ね? と同意を求めるように首を傾げると、アカシ先輩はボールを握りなおしながら、困ったようにうーんと唸った。
「前から思ってたけどさ、俺の方向かないよな」
「……そんなこと、ないっスよ。考えすぎっス」
「ん、そっか。ならいいんだけど」
 相変わらず真っ直ぐにこちらを見る眼差し。居心地が悪いけど、やめて欲しいというほどでもない。まぁ、どっちかといえばむしろ。
「なんかさ、俺と話してるときつまんなさそうだからさ」
「それはあるかもしれないッスね」
「俺ってちょっと空気読めない所あるから。嫌なことあったら言ってくれ。すぐに改める」
「…………うぃッス」
 アカシ先輩が部室へ戻るのと入れ違いにキョーコが現れた。まだ身体が火照っているのか下はスカートなのに上は半袖シャツ一枚だ。
「おっーせよ。人待たせておいてなに着替えてんだよ」
「わーるいわるい」
 全然悪そうに思ってないキョーコに英語のノートを押しつける。
「ん」
「おーありがとありがと。1時限目からイノセンの小テストとかもうさー」
 英語の井上先生は英語の小テストをクラスごとに使い回すことが生徒間で有名だ。だからこうやってこっそり融通し合って対策をする。イノセンは本当にやるきねぇなぁとみんなバカにして笑ってる。だけどミッちゃん曰く、
 ――井上先生もね、きっと知ってると思うの。知った上で、わざと黙認してるんじゃないかな。いい点数がとれるとわかればみんな勉強するもんね。
 と先生視点でコメントしていた。バカな私はバカだと笑う気も起きず、かといってミッちゃんの言うこともよくわからなかった。だから、こうやってとりあえず融通したりされたりしている。
 ちなみに、ミッちゃんはテストを借りたりせずに実力で高得点を維持している。
「そういえばさ、さっきハジメちゃん先輩いなかった?」
「いたよ」
 サッカー部がストレッチしているグラウンドの脇を通り2人並んで校舎へ向かって歩く。隣を歩く彼女からミント系の制汗スプレーの臭いが香る。
「あの人もがんばるよね、よわっちいのに」
「そだね」
 いくらレギュラー入りどころかエース級の働きを期待されてるキョーコとはいえ、後輩の女子にまでよわっちい呼ばわりされてると知ったらアカシ先輩はなんて言うだろうか。……なにも言わなさそうだ。
「ほんと、あの人のどこがいいんだか」
「だからそんなんミッちゃんに聞いてよ」
「だから」
 キョーコはタオルでまだ汗の滲む顔を拭った。そして透き通るような夏の終わりの空を睨んだ。
「だから。ミッチならなんて言うと思う?」
 私はキョーコに習って空を見る。登校してくる生徒が徐々に増え始め騒がしくなり、先ほどまでの静謐な朝の空気が逃げていく。
「……………………顔」
「うっわ……短絡的」
「ミッちゃんがだよ」
「ミッちゃんが?」
「ミッちゃんが」


◆晩秋◆


「休憩いただきまーす」
「おーう。あ、こいつ廃棄だから飲んでもいいぞ」
「ありがとうございます」
 坊主頭でひげ面の店長から、飲めもしない缶コーヒーを受け取る。少しへこんだ角を指でなぞり、それをエプロンのポケットへ放り込んだ。
 裏口から外に出る。雑居ビルと雑居ビルの間の路地は幅が1mもなく、昼過ぎなのに日の光は地面まで届かない。窮屈な思いをしながらコンクリートの段差に腰掛ける。生ゴミの臭いから逃げるように、コンビニ店員のユニフォームである薄水色のエプロンからフロンティアを一本取り出し火をつける。かるい臭いが空気を支配する。路地の隙間を縫うように空へ煙が抜けていく。それを目で追っていくと、まるで自分もそのまま空へ飛んでいくような気分になる。
「あー」
 人知れず声が漏れてしまう。もしかしても、今の私は端からみたらとてつもない変人なんじゃないだろうか。
「あー」
「……あれ、タカオカ?」
「あーーああああああああ!?」
 私は飛び上がるように立ち上がって後ずさった。
「うわ」
 声の方を見ると、路地の出口、通りに繋がる方にエナメルバッグを肩にかけたアカシ先輩がそこにいた。
「お、おう悪かったな驚かせて」
「い、いやこっちこそすいません。ってかなんでアカシ先輩がここに」
 はっと気付いて私は吸いかけの煙草を足下に落として踏み消した。……この距離だ。アカシ先輩からは見えていないだろう。
「いや、近くを通ったからさ。そういえばここでタカオカがバイトをしてるって聞いたなって」
「そっすか」
 歩み寄ってくるアカシ先輩が真っ直ぐこちらを見つめてくる。部活を辞めた日以降あってなかったけど、相変わらず変わってないようだ。
「よう、久しぶり」
「……うぃっす。お久しぶりッス」
 アカシ先輩はなんだか話しかけにくそうだった。そりゃ突然退部した後輩の女子だなんて話しにくいだろう。
「あの……」
「ん?」
「すいませんでした。突然辞めて」
「いや、別にそれはいいよ。俺に謝る事じゃないだろ」
 ……別にいいこと、なのか。私が部にいないことは。
「……なんだよ」
「いや、それでも一度始めたことは最後までやり通すのが筋なんで申し訳ないって思ってます」
「本当に思ってるのか?」
 アカシ先輩は半笑いで問い返した。
「いえ、ぶっちゃけ思ってません」
「だよなぁ」
「でも、キョーコには悪いと思ってます」
「あいつも何も思ってないだろ、どうせ」
 アカシ先輩はエナメルバッグを地面に下ろし、その上に座った。私も段差の上に座り直す。
「コンビニかー」
 先輩が私の背後の雑居ビルを見上げて呟いた。
「はい。まぁ高校生のバイトとしては無難かなと」
「そうだな」
「働いて、お金稼いで、好きなもの買って……ま、そんな感じです。ぶっちゃけ部活よりよっぽど生産的ッスね」
「お前なぁ。よくも先輩の前でそんな事を」
先輩の前だからッスよ、という言葉を口に出したか、出さなかったか。アカシ先輩はふぅん、と頷いた。
「まぁ、だから俺のことはいいんだ、どうでも。それよりミチの奴がさ、寂しがってた」
「寂しがってたって……」
「私がテニス部のマネージャーになったから辞めたのかなって」
「関係ないッスよ。強いて言えば、ほら、もう先輩とミッちゃんの仲を取り持つのもあんまり必要じゃなくなってきたってのはありますけど。でもバイトしたいなっていうのは前から思ってましたから。たまたまッス。たまたま」
「そっか、ならいいけど」
「いいんスか?」
 いやぁ、とアカシ先輩は頭をかいた。
「よくないんだけどな。クマちゃん先輩にもそれとなく話してこいっていわれたし」
「それとなくって、それいっちゃ意味ないッスよ」
「でもやっぱりミチが寂しがってたよ」
「寂しいって、ミッちゃんとは普通によくあってるし。そもそもアカシ先輩よりもずっと長い仲なんスよ。アカシ先輩に心配されるような事じゃありません」
 私がそっぽを向くと、アカシ先輩はこちらへ身体を乗り出した。汗の臭いが香った。
「それはわかってるさ。わかってる上で」
「ちょちょちかっ――」
「おいーっす、アイちゃん俺もきゅうけ……」
 すぐ脇の裏口が開いて、水色のエプロンをつけた茶髪ロン毛の青年が現れた。
 マヌケな秋風が一陣吹いて、表通りから犬の吠えた声がした。
「あ、あー……おじゃま?」
 その空気に一番最初に耐えられなかったのは茶髪ロン毛のササキさんで、頭をかきながらへらへらと笑った。
 それを見て我に返ったアカシ先輩は私との距離がとても近くなってたことに今更気付いたようにあぁいえ、と慌てて身体を離した。
「すいません、お仕事お邪魔して」
「ん? んーん別に休憩中だから全然いいよ。汚い所ですがどうぞゆっくりしていって」
「いえ、俺はこれで」
 エナメルバッグを肩に担ぐと、アカシ先輩は体育系らしくしっかり私達に頭を下げて表通りへ戻っていった。
 が、途中で足を止めて、くるりとこちらを振り返ると何か言いたそうな顔をした。だけど結局なにも言わずにまたぺこりと頭を下げ、今度こそ路地から出て行った。
 アカシ先輩の姿が見えなくなると、私は大きく大きく溜息をついた。
 息を吐ききった所で、煙草に火をつけたササキさんが声をかけてきた。
「彼氏?」
 まさか、と鼻で笑った。
「部活の先輩です。前の」
「あぁアイちゃん部活やってたんだっけ? えーっと……園芸部?」
 ボケてるのか本気なのかわからないササキさんの発言は無視する。コンビニバイトの先輩のササキさんの言うことはいつだってテキトーだ。タラタラしてブラブラして生きている。大学生だって話を聞いたことがあるが、果たして彼が大学へ行った所なんて誰も見たことがない。その癖バイト内では上手く立ち回っているのだからなお質が悪い。
「で、なんでその園芸部の先輩がやってきたの?」
「戻ってきて欲しいんですって、私に」
「へぇ。あいつアイちゃんに惚れてるの?」
「そう見えましたか?」
「全然」
「死ね」
「おいおい聞こえてんぞー」
「当たり前じゃないですか。聞こえるようにいったんですよ」
 先ほど踏み消した吸い殻を拾う。排水と砂で泥だけになった吸い殻をなんとなく天にかざす。
 吸う? とササキ先輩が新たな煙草を差し出した。私は首を振った。
「しかしこんな所まで連れ戻しに来るなんて。そんなにアイちゃんって鉢植え作りとか上手かったの?」
「全く。最弱と言っても過言ではないですね」
「……園芸に強い弱いとかあるのか」
「えぇ」
「どうやって決めるのそれ、品評会とかでもあんのかな」
「方法は色々ありますけど、基本的には見ればわかりますよ。強い奴弱い奴なんて」
 ササキさんはこちらに煙が来ないように吐き出した。
「例えば俺は?」
「ササキさんはあれですね、強くも弱くもない。すぐに逃げる人です」
「うっわキッツー。俺傷ついちゃうよ」
「私と同じですよ、きっと」
「アイちゃんってさ、結構テキトーだよね」
「自覚はあります」
「俺と同じだ」
「それは不本意ですね。流石に」
 私は吸い殻を灰皿代わりの古い缶詰の中へ放り投げた。
「やっぱり一本貰えますか?」
「あいあいー」
 ありがとうございます、と受け取って火をつける。一息吸う。秋の空へ吐き出した。
「……不味い」
 なんて不味い煙草を吸っているんだこの人は。
「大人の味だよ」
「これが大人の味だって言うなら、私は大人になんかなりたくない」
「お、青春だねぇ」
 ササキさんは新しい煙草に火をつけた。煙が二筋、天へと伸びる。
 ふわふわとした空気が漂う。このまま全てが流れてしまえばいいのに、と思った。
「これ、家族と二人の親友以外には誰にも言ってない秘密なんですけど」
 突然の私の言葉にも、ササキさんはうん、となんでもないように頷いた。

「ちょうど1年くらい前ですかね、夜道で酔っぱらいに絡まれたことがあったんです」
「それは酷いなぁ。俺が一緒にいたら絶対に守ってあげたのに」
 人のトラウマを軽口で返してしまうササキさんに呆れを通り越してなんだか笑えてきて、私はクスクスと笑った。そのおかげで私の口も幾分軽くなった。
「私がまだ中学生の頃です。部活が終わった後に部室で友達とダラダラしてたらすっかり暗くなってしまって。ちょうどこの季節ですからね、日の落ちる時間がどんどん早くなっていくのに気付いてなかったんです」
「部活って園芸部?」
「夜道とは言っても幼い頃から走り回っていた地元ですからね。全然怖くはなかったんです。私自身、気の強い所があるし。それに、いまいち男の人に襲われるとか、そういう行為に現実感がなくって」
「中学生になってもそういう心構えはいかんなぁ。女の子なんだから自分の魅力は自覚しないと」
「そうですね、そうかもしれません」
 確かに、私はイマイチそういう事に無自覚すぎたのかもしれない。遅れてる女だ。そういう意味ではキョーコもミッちゃんも進んでる女で同率一位、だいぶ下がって私が二位だ。
「注意力散漫だったんですね。暗い夜道をぼうっと歩いてたんです。今日の晩ご飯はなにかなとか、そろそろ受験勉強しなきゃなとか考えながら
 そしたら――」
 ふぅっと息をつく。
「そしたら、後ろから急に抱きつかれて」
 抱きつかれて最初に思ったことは、臭い、だった。
 おっさん臭い。酒臭い。獣臭い。煙草臭い。
 臭くて臭くて仕方がなかった。
「私、本当にパニックになってしまって。暴れました」
「へぇ。震えて動けなくなっちゃう人もいるだろうけど。アイちゃんは戦ったんだ?」
「戦ったっていうのは少しかっこよすぎますけど。明確に対抗したいと思った訳じゃないんです。ただただ頭の中がパニックになって腕と鞄を振り回したんです。反射ですよただの。ゴキブリに出会ってパニックになるようなもんです。
 そしたら振り回した鞄がうまいことくるんと回って、おっさんの側頭部にクリーンヒットしたんです。からんからんって音がしたのを覚えています。後で聞いたら、どうやら眼鏡が弾き飛ばされた音だったらしいです」
 ラッキーヒットだ。
 だけど、それはラッキーなヒットではあるけど、致命的なヒットではなかった。むしろ、アンラッキーなヒットとさえ言えた。
「それまではおっさんもふざけた様子だったんですが――もちろん私からしたらふざけるとかそれこそふざけた話なんですが――眼鏡を飛ばされて急に頭に血が上ってしまったようで、本気で私を抑えこんだんです。なんか色々わめいてた気がするんですが……忘れました」
 本当の話だ。外道の言葉を理解して記憶するような耳と頭は持ちあわせていない。
「怖かった。怖かったなぁ、ほんと」
 ぎゅっと自分で自分の肩を抱きしめた。ササキさんは何も言わずにうんと頷きながら二本目に火をつけた。
 臭い息。生温かい感触。唾液の飛ぶ音。すべてすべてが気持ち悪かった。泣きたいのに泣くこともできなくて泣いた。めいいっぱい叫んだ。
「そんな私の様子がおかしかったんですかね。そいつがこいつを近づけてきて」
 懐から百円ライターを取り出して着火する。ゆらゆらと橙色が揺れる。
「燃やされちゃったんです、髪の毛」
 流石のササキさんも、少しだけ顔を歪めた。
 それまでの匂いに、また焦げ臭い匂いが加わったんだ。しかもその匂いはおっさんが発する悪意の匂いではなく、私自身が発してる匂いだ。それがとても恐ろしくて、おぞましくて、私は喉がかれるほど叫んだ。血が吹き出るほどに、叫んだ。けれど、その声はどこにも届かなかったのだ。
 あぁ、ここはどこだろう。私はどこにいるんだろう。
「そしたら、助けてくれたんです」
 煙草とライターを、灰皿に投げ捨てた。
「助けてくれた人がいたんです。さっそうと現れて、おっさんを追い返して、警察が来るまで私を励ましてくれたんです」
 匂いが、消えたんだ。
「救われましたよ。ほんとに。救われるっていう言葉を本当の意味で使う場面なんて、あるもんなんですね」
「そっか。ヒーローみたいだな。かっこいいな」
 はい、と噛み締めるように返事をした。
「一応、なんていうか暴行事件? っていう扱いになったようで。あまり関係者と顔を合わせないほうがいいっていうことになって、結局その人ととあったのはそのときだけだったんです。
 ――そして、これは家族にも友達にもいってない話なんですけど」
「うん」
「だから、高校入学した時に、親友について行った部活見学であの人を見つけた時は――」
「運命、とか思っちゃった?」
「思っちゃいました、ね……」
 それまで続けていたバレーボールをすっぱりあきらめる程度には。
 ふーっとササキさんが長い煙を吐いた。
「その様子だと、向こうは覚えてない?」
「覚えてるほうがおかしいんですよ。あんな暗い道でいっぺん会っただけの人の顔を」
 だからきっと、私はおかしいのだ。おかしくされて、しまったのだ。
 後で警察の人に聞いた話によると、私は全く声をあげていなかったらしい。大声で叫んだりののしったりしたのは私の錯覚だったのだ。だから、私の声がどこにも届かなかったのは当然だ。声なんて、なかった。
 ――だけど、それでも先輩は、アカシ先輩だけは私の声を聞き取ってくれた。
 先輩は、弱い側の人間だ。絶対に、絶対に先輩は弱い側の人間だ。見ただけでわかる。私やササキさんと同じだ。
 だけど、先輩は私と違って、弱くても逃げずに立ち向かった。強弱の差異ではなく、善か悪かで行動のできる人間だ。
 私と似てるけど、でも決定的に違う人だ。
 思ったのだ。世の中悪い人だけじゃないって。今はこうやって大丈夫だけど、半年くらいは炎を見るのも怖かった。でもたった半年ですんだのは、やはりあの直後に先輩が励ましてくれたおかげだ。
 もしあの人がいなければ、私はきっと夜外に出れなくて、男の人が怖くて、火を見るだけで泣きだす人間になってた。
 だから、他の誰かが馬鹿にしても、親友があの人と恋仲になっても、あの人自身が忘れていても、私は彼を、信奉しているのだ。
「うぅ寒っ。ちょっと冷えてきたな」
「そうですね、そろそろ戻りますか」
 私たちがそういった途端に、店長が私たちを呼ぶ声が聞こえた。顔を見合わせてやれやれといった調子で笑った。お尻をはらい伸びをしたところで、ポケットにコーヒー缶が入ったままなのを思い出した。先輩に渡せばよかった。
「飲みます? これ」
「おっサンキュー」
 ササキさんはそれを受け取り、すぐにプルタブを開けた。私に背を向けて飲みながら歩き出す。その背中に、私はふと疑問に思って問いかけた。
「ササキさんって、セックスしたことありますか?」
「なにそれ、誘ってんの?」
「まさか、ぶっ飛ばしますよ」
「まさかはこっちのセリフですよー」

 結局、その二週間後に私はササキ君と付き合うことになり、さらにひと月後に私たちはセックスをした。


◆仲冬-朝◆


 軽薄なロックシンガーの曲が、寝起きの私の脳を揺さぶる。私はこんなうるさい音は全く興味もなかったが、私の恋人であるところのササキ君が一押しのインディーズバンドであるようで、甲斐甲斐しくも私は趣味を合わせその曲を携帯に入れたわけだ。がしかし、だからといってなにも目覚ましの曲にする必要はなかった。今日という素晴らしい一日が始まるそのときに聞こえる朝の第一声が放送禁止用語であるいわれはないのだ、これっぽっちも。やはり、いくら親しい中でも一線は引くべきだなと心にとどめ、目覚ましアプリをオフにすべく枕元の携帯へ手を伸ばす。このアプリは簡単にはアラームを解除できないように、非常に単純なパズルを解く仕組みになている。なんでそんな妙なものを導入してしまったのかと過去の自分の気まぐれに舌打ちをして寝ぼけ眼で液晶を覗く。
 そこで、半分覚醒していた思考が完全に止まった。そしてノータイムで、通話ボタンをタップする。きっと私は、ここで躊躇するべきだったのだ。
「……うぃっス。おはようございます先輩」
「いえ、はい、大丈夫ッス。全然」
「今日ッスか? まぁ、大事な用事ならいいッスけど」
「……は? クリスマスパーティ?」
 うつ伏せになっていた身を仰向けにして、壁にかかったカレンダーを見る。
「いや、今日は確かに24ッスけど」
 確かに私はガサツな所もあるけど、流石にそんな大きいイベントを忘れるほど枯れてはいない。
「は? 今日っすか? ……あー。あー。そういえばミッちゃんとキョーコがそんなこといってたような」
「えっ、あーいやまぁ確かにそうは言いましたけど。なんていうか大事な用事ならっていうのはつまりー」
 いきなり今日の予定がないことを白状してしまった自分に腹が立つ。もしくは、それを目論んでの話術というのなら先輩はなかなかの策士だ。ちなみにササキ君は数日前から三が日まで連続二週間出勤だ。日頃さぼってるからそんなハメになるのだざまぁみろ。
「いやだから、行きたくないわけじゃないッスけど、なんていうか、もう部外者の自分が水さしちゃ悪いっていうか」
「だからその、聞いてます? ちょっとアカシせんぱ――」
 通話の切れた電話を握りしめ、そのまま腕ごと枕に落とした。
「なんも話聞かないし、なんなんだよもう……」
 こんな押しの強い人ではなかったはずだ。先輩の後ろから圧をかけるキョーコとミッちゃんの姿が透けて見える。今年も、私たちは夜遅くに親友三人だけでクリスマスを過ごす約束をしている。だからテニス部のパーティに参加する理由は全くないのだ、私には。ないのに、なんでこう誘ってくるのか。なんで。
 ――どうでもいい。
 がばりと身を起こした。身だしなみを整え、クリスマスプレゼントを買いに行かなければ。
 窓を開けると冬の朝のつんと立ったような空気が目を覚まさせてくれた。
 どっちにしろどうだっていい。くよくよ悩むとか、そういうのと私は無縁なのだ。とりあえず行動あるのみだ。
 それになにより、今日の服装を決めなければ。アカシ先輩も来るのだ。よく考えてみると、アカシ先輩に私服を見られたことはない。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけだけど、それを意識した。
 枕の上の携帯からロックバンドのアラームが鳴った。私は一度取り上げると、それを再び枕へ叩きつけた。


◆仲冬-夜◆


 夜空はすっかり晴れ渡っていて、雪が降る気配はこれっぽっちもなかった。ホワイトクリスマスはお預けだが、珍しいことに満月とクリスマスが重なった。憎たらしいほど光るそれに手をかざす。すると視界から消えたことが急に不安になって手を降ろす。またかざす。これを2、3回繰り返していると、後ろから声が聞こえた。こんな日のこんな時間でも車道を走る車はそこそこ多くて、その音にかき消された声を私は聞き返した。
「え? なんスか?」
「だから、前見て歩けって」
「歩いてますよ、ほら」
「やっぱり酔ってるだろおまえ」
「ぜんぜん」
 アカシ先輩が小走りで私の隣に並ぶ。私の腕をとる。厚手のジャケット越しに、ぎゅっと先輩の細くしなやかな指の感触がする。
「触んないで下さいよ」
 その腕を振り払って、きれいに舗装された歩道を進む。
「っていうかなんでついてきてるんですか」
「家までお前を送ってるんだよこれでも」
「一人で帰れますよ、子供じゃあるまいし」
「俺だってそう思うよ、だけど」
「アカシ先輩って、前から思ってたんスけど」
「ん?」
「『俺』って似合わないですよね。『ボク』とかが似合うんじゃないッスか?
 ……あれ? 怒りました? ムっとしました?」
「……怒ってないよ」
 私はクスクスと笑った。なんだか楽しくてしょうがない。
 パーティ後の熱気だとか、クリスマスの雰囲気だとか、寒い外気とアルコールが廻った体内の温度差だとか。
 あとは、そう、となりにアカシ先輩がいる、とかね。
 そういうもののせいで私の思考は頭がい骨を一つ越えて頭の上でふわふわと浮いている。
「冷えてきたな」
「そうですか?」
 慣れないお酒に火照った体には、冬の寒さがむしろ心地よかった。
「危ないから、危ないって」
「うるさいなぁ。じゃあこっちから帰りましょうよ」
 車通りの多い道をそれ、より暗い路地へ私はもつれた足を進めた。先輩も慌てて私に続く。
 フクロウの鳴き声が聞こえた。私はそれを聞くと急にむしゃくしゃして両腕を振り回した。ふとそこでハンドバックを持ってないことに気づく。
「ミチがあとで持ってきてくれるってさ」
 私が首をかしげていると、先輩が察したように声をかけた。
「マジかー。ミッちゃんいい女だー!」
「叫ぶなうるさい。あと知ってるよそれくらい」
 でも意外だな、と先輩が言った。
「でも意外だな。テンションの高いタカオカとか初めて見たよ。タカオカもそんな風になるんだな」
「アタシはいつも割とこんな感じッスよ。アカシ先輩の前だとテンション下がるんスよね」
 脳を侵食したアルコールのせいでついつい口が滑る。返事を返さない様子の先輩に、ちょっと言い過ぎたかなと顔だけ後ろに向ける。すると、やっぱりこちらをまっすぐと見つめてきていて、私はすぐに顔を戻して前を向いた。
 あのさ、と後ろから声が投げかけられる。幾分、いつもより真面目な調子に聞こえるのは、気のせいだと思う。
「俺はタカオカの事結構好きだよ」
「なんスかいきなり」
「二人で話してても俺は楽しいし、一緒にいれば落ち着くし。結構、仲がいいほうだと思う」
 後ろからの声を無視するように、私は足を前へ投げ出すようにしながらゆっくりと歩く。
「なにより、俺はタカオカに感謝している」
 それはどーも、と返事を夜空へ返す。
「けれど、タカオカは相変わらず俺の方向いてくれないし」
 アカシ先輩の足音が止まる。
「だから、わからないから。わかるようにして欲しい……って」
 私は数歩歩いて、月に比べてずいぶんと薄暗い街灯の下で立ち止まる。
 息を大きく吸って吐いて、乾燥した冬の夜の空気を肺へ入れ替える。
「――誰が、ですか?」
 俺がだよ、と答えて欲しかったけど、先輩はたっぷり一呼吸置いて。
「わかるだろ、それくらい」
 と返した。
 白い息を遠く深くクリスマスの夜空へついた。
 ……怖い女だなぁ、ミッちゃんは。
 昔からそういう娘なのだ。見た目に反してやることなすこといつも強烈で。
 だから、私はミッちゃんのことが、大好きなんだ。
「つまり……あの、なんていうかさ」
「そんなんじゃないんですよ、アカシ先輩。そんなんじゃないんです」

 たぶん。きっと、全部。そうじゃない。そうじゃないんですよ、先輩。
 だってそう思わなきゃやっていけないじゃないか。
 私の親友。私の恩人。
 私の愛しいものだけで構成されている関係性に浮かぶ感情は、だから愛しいものでなければならないのだ。
 つまり、こんな醜いものは嘘だ。
 だから先輩、あなたの考えてることは間違ってるんだ。

 薄ぼんやりとした街灯の下でまわれ右をする。ちょいちょい、とアカシ先輩を手招きする。先輩は恐る恐るといった体で私に近寄ってくる。立ち止まった位置はいつもの私たちの距離より少し遠い。
 ふんふんと手招きをする。いつもの、手を伸ばせば届く距離まで来る。
「まだ」
 一歩進んで、私のすぐ目の前まで来た。手を伸ばさなくても、触れてしまいそうな距離だ。
 先輩は、相変わらず私をまっすぐ見つめている。私は胸元へ降ろしていた視線を――一気に引き上げた。

 ――一度だけ、あるんだ。
 貴方を、真正面から、じっと、瞬きも呼吸も、心臓の鼓動さえ止めて。
 貴方を見つめたことが。
 一度だけ、あったんだ。

「アカシ先輩って、こんな顔してたんスね」
「う、うん――うおぉっ!?」
がしっと両手で先輩の頭を挟み込む。大きく息を吸って、吐いた。
「前!」
「ま、まえ?」
「前に! 嫌いな所言えっていいましたよね!」
「ええっと、言ったような言ってないような……」
「どっち!」
「言いました! 確かにそう申し上げました!」
「じゃあ、言います」
「い、今?」
「今!!」
 胸を張る。お腹の下の方に力を入れる。足は地面を踏みしめる。テニスだってバレーだって、男の人と話すときだって、重要なのは結局それだ。
「アカシ先輩!」
「は、はい」
「あなたはいつもいつも優柔不断で見ていて不快です!」
「女の子と仲良くなりたいなら自分で考えて自分で行動しなさい情けない!」
「はっきり言ってみんなあなたのオロオロとする姿をみて笑っています! 私も笑ってます!」
「その癖『自分は見た目がいいからそこまで嫌われることはないだろう』とか妙な自信を持っているでしょう気持ち悪い!」
「そういう似非謙虚みたいな嫌らしい態度が透けて見えるんですよ!だから女の子はみんなあなたと一線引いて友達づきあいをしているんです憐れですね!」
「そういう所からみんなにホモなんじゃないかって噂されてるんですよ知ってましたか? 知ってませんよね先輩友達少ないから!」
「テニスも弱いし! 庶務の仕事は遅いし! カラオケは下手だし! あからさまに童貞だし!」
「そういう所が先輩の嫌いな所です!」
 真っ直ぐ見つめた先輩の瞳は涙が浮かび始めている。いい気味だ。胸がすっとする。
「でも!」
 でも。
「でも! でも一番嫌いなのは!」
 でも、なんで。
「あんたが全部全部忘れてる所だぁっ!!」
「は?」
 間抜けな顔をしている男の顔を挟む両手に力を込める。
 引き寄せる。
 顔が近づく。
 接近する。
 瞳が近くなる。
「タカオカ……?」
 接触するまであと数cm。
 私は。
 私は。
「らああああああああああああああああっ!」
 渾身のヘッドバットをそいつの鼻っ柱に叩きつけた。

 ごぢんっ。

 頭蓋骨を伝わってトマトが潰れるような音が耳に届く。バレーボールとかテニスボールとかが顔に当たったときに聞こえるあの音だ。
 目の前の男は妙な叫び声をあげてアスファルトの上に尻餅をついた。
「くっそ、いってぇな鼻潰れたぞこれ絶対……。何するんだよタカオカ。ほんと酔うと意味わからない……タカオカ?」
 暗い夜道。
 古ぼけた街灯の下。
 見下ろすのと見上げるので立場は逆だし。そもそも今は私が加害者で目の前の男が被害者だ。
 だけど、一年ちょっと前のあの光景とそっくりだなと私は思うのだ。
「タカオカ? な、なんでお前が泣くんだよ」
「うわああああんばかあああああああ」
 肺がひくひくとしゃくりあげてまともに息をさせてくれない。正常に戻そうとと肩を使って腹筋を使って肺を動かす。その度にポンプみたいに私の目と喉から情けないものが流れ出る。
「ばかあああああああああああああ!」
「そ、それはこっちの台詞――」
「嫌いだああ! 先輩なんて、大っ嫌いだあああああああああああ!」
 私はくるりと踵を返して、全力で走り出した。
 アカシ先輩が何か叫んだ気がするがもう聞こえない。乙女の全力疾走を、舐めてはいけない。
 私はこの夜、世界で一番速く走った女の子だった。


◆仲冬-深夜◆


 しゃしゃしたー。
 コンビニの自動ドアが開くと店内から店員のくだけた挨拶が漏れ聞こえる。私もコンビニでバイトしているが、深夜は働くことが出来ないので深夜における接客態度というのはよくわからない。自分の働いてる店ならまだしも全く別の系列店だったらなおさらだ。
 ずずっと鼻をすすった。
 店内からは店員が胡散臭そうに車止めに腰掛ける未成年女子を見つめる視線を感じる。
 声をかけるのはめんどいけど、かといって放っておくと何かあったときに店長になに言われるかわかんねーし。あぁめんどくせー。今日はクリスマスなのになんで俺はバイトなんかしてるんだかったりー。といった所か。
 そうそう私は面倒くさい女なのだ。ずびびっ。
「へいへーい」
 乾燥した寒風が一陣吹いて、それとともに声が聞こえた。
 なんとも耳慣れた声と足音だ。
「ふーん。うんうん、あっいたいた。見つけたよ」
 山みたいな図体の女子が近づいてくる。色気も何もない上下ジャージにスニーカーのその姿で、耳に当ててる携帯だけがぴかぴか光ってる。
 その小山は私まで近づいてくると上体を傾けて、私に携帯を差し出す。
「ん」
 と無言で差し出された携帯を、私はひったくる。そして耳にはあてず受話口に向けて。
「生理中です!」
 と叫んで叩ききった。
 返された携帯を受け取るとキョーコはあーあーと笑った。
「すっかり美人になっちゃってまぁ」
「知ってるわアホ」
 まっすぐキョーコをにらみ返す。キョーコになら赤くなった目元を見られても恥ずかしくはない。というか、アカシ先輩以外だったら誰でも恥ずかしくなんかない。
 無言が少し続いて、あのさ、と私が切り出そうとすると。あーそうだとキョーコが声をあげる。
「ちょっとまって、歯ブラシ買ってくる。あぶない忘れる所だった」
 そういうと店の中に消えていった。どんな時でも空気の読めない友人だなと私は溜息をついた。

 店員となにやらたっぷり10分は雑談してから、ようやくキョーコはコンビニから出てきた。私を指さすな。コーヒーミルクを受け取ってそれをすする。
「……苦い」
「そう? っていうか聞いてよ私のお父さん。お風呂掃除するのに間違えてわたしの歯ブラシ使ってやがるの。ほんと意味不明なんだけど。間違えた〜って普通間違えるそういうの? ありえないでしょ」
「……うん」
「せめて買い置きの歯ブラシとかあるならいいけどそれもないとか。ほんっと意味不明」
「……うん。苦い」
「主夫の仕事でしょそういうのも。あーあーお父さんがお母さんだったら良かったのになぁ」
「……そだね」
 キョーコのどうでもいい話を聞いてると、段々と身体の血の巡りが良くなっていくのを感じる。アルコールが飛んでいって、身体を支配していた怒りもどっかに消えて、かわりに猛烈な恥ずかしさが襲ってくる。その記憶から逃れるようにコーヒーミルクをすすり、脳に苦み信号を送る。
「いっつもこうだ」
 ずずっと鼻をすすり上げる。
「なにがー?」
「ミッチが泣くといつもアタシに電話かけてきて。アタシが泣くといっつもキョーコが現れる」
「そだねー」
「……キョーコが泣いたときは、ミッチに電話すんの?」
「んーー、秘密」
「そっか」
「うん」
 満月を見上げると、相変わらず奴はまん丸だった。
 キョーコになにもかも説明しようかと思ったけど、やめた。どうせ聞きたくない、っていうんだ、この娘は。
 それに私もうまく説明できる気がしなかった。だから、一言だけ。
「やっぱさ、アカシ先輩って最低にかっこわるいよ」
「知ってる」
「でも、好きなんだ」
「それも知ってる」
「……そっか」
 キョーコはよいしょと立ち上がってお尻をはたいた。私の脇の下に腕を入れて無理矢理立ち上がらせる。
「軽いなぁ。ご飯食べてる?」
「普通」
「今日はこれから予定通りアイの家に泊まっていっていいかな? 高校生になってもクリスマスを家族と過ごすってのはちょっとさぁ」
「……キョーコもそんな事気にするんだ」
「するさ」
 きっとしてないんだろうな。私の親友。ありがとう。
 キョーコが私の腕をとって歩き出す。
「それよりさ、まだあいてるスーパーあるからあそこでダッツいっぱい買っていこう? ケーキもいいけどやっぱ冬はアイスだよね」
「アタシ、チョコミントが食べたい」
「せっかくダッツなのにチョコミントってあんた」
「バカにすんな」
「うっさいバカ。あーそうだ! ダッツってでっかいのがあったよね! アレにしよう!」
「絶対アンタの方がバカだよ」
「三人で割り勘すれば何とか買えるし食べきれるでしょ」
「…………うん」
 それまでには、この腫れた顔をどうにかしよう。
「でも、飽きそうだなぁ」
「飽きるくらいが丁度良いよ」
 そう、確かにそうだ。飽きるくらいが丁度良いんだ。
 私達は、それくらいの量のダッツを欲しているんだ。贅沢だとか、恥知らずとか、カロリーがどうとか、そういう問題じゃない。
 私達はただただ欲しているのだ。
 だけど、残念ながらコンビニに売ってるダッツは高いし、スーパーは時間になれば閉店してしまう。
 だから、こうやって友人達とお金を出し合って買いに行く。
 三等分したダッツの味は変わらない。
 でもきっと、私達はそれをぺろりと食べてしまう。あぁは言ったけど、たぶん飽きる事なんてないんだろう。
 なんて惨めな生き物なんだろう、私達は。
「キョーコ、悲しいねぇ」
「クリスマスだからね、仕方ないんじゃないかな」
 私はうんうんと頷いて、それからキョーコの腕を私の方から抱きかかえた。
 メリークリスマス、みんな。








 ◆そして◆


「でもねぇアイ」
「うん?」
「アタシもできれば、クリスマスはかっこいい男の人と腕を組んで歩きたかったよ」
「コウテイペンギンでも?」
「クリスマスくらいキスすれば人間になるでしょ」
「アバウトだなぁ」
「でもま、こうして独り身同士ですごすのも悪くないんじゃないかな。後で彼氏持ちが合流するけど」
「えっアタシ彼氏いるけど」
「………………えっ?」
「えっ」
「えっ」
「「…………………………えっ?」」


 結局その聖夜に私の部屋にはプレゼントを持ったサンタクロースはやってこず。
 巨大なサタンがダッツの特大カップを抱えて暴れ、小さなエンジェルがそれをなだめようと涙目で右往左往していた。

 メリークリスマス、キョーコ、ミッちゃん。
 愛してるよ。